2012/06/14

人を使役する「Code」としての言語。

先日とある一流大学の先生と言語についての考えをディスカッションする機会に恵まれました。
いつも素晴らしい論点を持ってきてくださる方で勉強させていただいてます。
そのディスカッションで心に残った言葉に「Coding」がありました。

言葉の一つの側面は人を使役すること、人に情報を伝達することです。
何かの行動を促したいという抽象的な概念を言葉に「Coding」し、相手に伝える。
良いEncodingを果たした言葉ならば正確に情報は伝わりトラブルなくミッションは完遂されるでしょう。
Encodingが複雑だったり、またはCodeにエラーがあった場合は情報は間違って伝わり、トラブルの原因になると考えられます。

言葉とは「Code」であり、人はその「Encoding」を司るアルゴリズムと言えるかもしれません。
良いEncodingをすることでトラブルを防ぐことができます。
正しく情報を伝達することで誤解されることもなくなります。
だから美しく、曖昧でない日本語を話すことができるようになることが大事なんですね。
これは日本語を母語とする自分にとっては一番重要なことだと思いました。

しかし、日本語はもともと曖昧なニュアンスを含んだ言語です。
YesともNoとも解釈できる「善処します」なんていう表現で溢れています。
使いこなすのが難しい言語であり、もっと言えば使役のCodeにするには向いてない言語かもしれません。
その点英語はシンプルです。
発せられた言語とおかれたシュチュエーションを照らして考えればダイレクトに情報が流れ込んできますし、文化の中にも言葉の裏を読む、洞察するという部分が少ないように感じます。
英語は「Code」に向いた言語なのではないでしょうか。

これらを踏まえて僕が取り組むべきことのベクトルはふたつ。
もっと英語を上手に扱えるように勉強しスキルアップすることがひとつ。
そして英語的な曖昧さのない「Code」としての日本語を再定義し、自分のコミュニティにおいて円滑なコミュニケーション環境を作ることがもうひとつ。
それが成ったときには意思決定の早いスペシャリストの音楽家集団が生まれ、多数の共有する概念を正確に捉え、踏まえる事で思考を更にその先へ伸ばしてゆけるかもしれません。
そういう環境があってはじめてイノベーションが起きる開発ができる。
言語への造詣とレベルの高いEncodingがその夢への第一歩。