2014/09/19

映像をとるということ、について考えてみた。


新しいカメラレンズに変えてからずっと考えていること。
「映像を撮るとはどういうことなのか?」

50mm、1.4単焦点レンズのおかげで物事に迫り、伝えたい事をフォーカスできるようになった。
余白は美しいボケ味となって真実の姿をマスキングし、被写体だけを美しく浮かび上がらせてくれる。
何をどう撮っても美しく仕上がる。
確かにその通りなのだが、しばし自分で撮影をくりかえし、出来上がったものを見返すことでそれだけではいけないということがわかってきた。

このレンズを活かすために、撮影者が何を視聴者に見せたいのか現場で瞬時に判断しフォーカスしなくてはならないということ。
それができていない映像はただの美麗な光の記録というものに形骸化してしまう。
撮影するものがコンセプトやメッセージを強烈に持ち、その瞬間を"ドキュメンタリー"しなくてはならない。
このためには技術者ではなく芸術家としてのマインドを持たなくてはならない。

被写体をかえてゆくときのカメラの動きも難しい。
見せたい事象へフォーカスすることを続けつつ、カメラワークの中に"ストーリー"を生み出さねばならない。
談笑する二人のシーン。
パンをするかたわら手元や足元の映像に寄ってみたりしても、そのときそこに目的とする事象が生まれていなければ意味はない。
その場合は逆にそのシーンはマスキングするべきなのかもしれない。
ふたりの会話の流れ、やりとりの"間"に撮影者もシンクロし、おこるべき事象を予想した上、もしくはその事象が発現した時にカメラをそこへフォーカスする。
そういった能力さえもドキュメンタリーを撮るのには必要だ。
とても難しく、気づいてからも訓練を必要とする課題だ。

しかしこれらの課題をクリアしドキュメンタリーを撮れるようになれば映像制作は大きくかわる。
大掛かりな照明もいらず、ハイクオリティな録音もいらない。
演出というともすると虚飾のように作用してしまうテクニックも必要なくなる。
日常のすべてが美しい映像になりストーリーになる。
これは素晴らしいことだと思うし、これこそが映像をつくる意味なのかもしれない。
本当の意味での"レコーディング"をし、物事にフォーカスして"ドキュメント"する。
そしてそれを"アーカイブ"し"共有"すること。
それがインターネット時代の映像制作の本質なのではないだろうか。